車いすバスケットボール
日本選手権11連覇の名門クラブチームを支え
仕事や家庭と両立しながら全国の舞台へ
日本選手権11連覇の名門クラブチームを支え、仕事や家庭と両立しながら全国の舞台へ
NTT労働組合 東北総支部 事務局長 佐藤 裕希さん
車いすバスケとの出会い、そして日本一のチームへ
21歳の時、バイク事故で左脚を失った。入院中、見知らぬ車いすの男性から「一緒にバスケットをやらないか」と名刺を渡されたが、当時は激しいスポーツのイメージがあったため、「障がい者になってまでケガをしたくない」と断った。
学生時代はサッカーやストリートダンスに打ち込むなど、常に生活の一部に運動があった。事故後は水泳を始めたが、社会人1年目の3月に東日本大震災が発生。震災で体育館が使えなくなり、その機会を失われた。震災から4ヵ月ほどたった頃、「とにかく身体を動かしたい」という思いが強くなった。
ふと、入院中に受け取った名刺を思い出し、2012年、地元の車いすバスケットボールチーム「宮城スパークス」に加入。しかし、普段は義足で車いすを使わないこともあり、当初は車いすの操作(チェアワーク)に苦労し、シュートも全く入らない。ひたすらゴール下で練習を重ね、1年ほどでようやく形になってきた。
「義足では走れないので、車いすで早く動けることにテンションが上がりました」
宮城スパークスには4年間在籍。「もっと上を目指したい」と思うようになり、2016年、日本選手権(現在の「天皇杯」)で連覇中だった日本一のクラブチーム「宮城MAX」に移籍した。
「スタメン全員が日本代表のようなチーム。ウォーミングアップのスピードからして別世界で、最初のうちは移籍を後悔するほど大変でした」
長くベンチを温める日々が続いたが、徐々に代表選手が引退し始め、試合に出る機会が増えていった。2019年にはチームのまとめ役を期待され、キャプテンに指名される。「キャプテンになって負けたらどうしよう」というプレッシャーの中、自身も活躍し、チームを11連覇に導いた。
宮城MAXでセンタープレーヤーとして活躍するとともに、ヘッドコーチとしてチームを率いる
選手兼ヘッドコーチとしてチームを率いる
車いすバスケットボールでは、選手一人ひとりの身体の状態に応じて、1.0から4.5までの「持ち点」が定められ、コート上の5人の合計が14.0を超えてはならないというルールがある。
持ち点4.0の佐藤さんは、上半身を安定して支えられるため、座面の高い競技用車いすでプレーできる。座面が高い分、リングに近い位置でプレーでき、チームの中でも“高さ”を生かした役割を担っている。
一方、持ち点の低い選手は、上半身の安定性を保てる座面の低い車いすでプレーする。
「1.0の選手が自らシュートに行くのは難しいので、私のような大きな選手がゴール下に入りやすいよう道を作ってくれる。そういう連係プレーが車いすバスケの面白いところです」
宮城MAXは2021年の東京パラリンピック後、日本代表として活躍した選手たちが次々と引退。ここ数年、予選は通過するものの、天皇杯では1回戦で敗退する厳しい状況が続いている。そんな中、2025年4月から選手兼任でヘッドコーチを任された。同じ年にNTT労働組合 東北総支部の事務局長に就任し、忙しい合間を縫ってチームを率いる。続ける理由は、2歳になる子どもの存在だ。
「子どもにかっこいい姿を見せたい。5歳になれば記憶に残ると思うので、あと3年は頑張りたい」
インタビュー時、佐藤さんは12月の天皇杯(第51回日本車いすバスケットボール選手権大会)東北ブロック予選会に向けて気を引き締めていた。天皇杯は車いすバスケットボールのクラブ日本一を決める唯一の舞台。今大会は、チームのセンタープレーヤー二人が福島のチームに移籍したため、自分一人でゴール下を守らなければならない厳しい状況だという。
そして迎えた東北ブロック予選会。宮城MAXは見事優勝を果たし、自身も初の大会MVPに輝いた。3月の天皇杯では、ここ数年果たせていない「1勝」を目指す。
周囲に感謝し、自分に限界をつくらない
佐藤さんが普段心がけていることは、家族や職場など周りに感謝すること。そして、自分で限界をつくらないことだという。
「人生いろいろありますが、受け止めて頑張ればなんとかなります」
事故の後、義足での歩行訓練では、自然に歩けるよう鏡の前で何度も練習を重ね、作業療法士から「こんなにうまく歩く人はそういない」と褒められた。「できなかったことができるようになる喜び」が、今も佐藤さんを前に進ませている。
「母校の小学校に招かれ、車いすバスケで子どもたちと交流した時は、感慨深いものがありました」
(2026年1月掲載)


















